鎌倉街道上道

鎌倉街道は鎌倉に幕府が置かれたころから、鎌倉を中心に各方面へ行く道として整備された。 上道(かみつみち)はそのうちのひとつであり、上州方面へ繋がる道であった。
鎌倉街道は歴史が古いため、江戸時代に整備された街道と比べて残存部分が非常に少ないが、 それらしいところを歩いて見ることにします。 ここでは地元である嵐山町の部分を南から北に向かってレポートします。

※掲載地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものです。
(承認番号 平17総複、第339号)

嵐山町の鎌倉街道

嵐山町 現在の嵐山町の南の入り口が鳩山町との境界の笛吹峠である。標高は90mと低いが碑やあずま屋も建っており、 峠を感じさせるところだ。水洗トイレや駐車場もある。
かってこの地に陣を置いた新田義宗は足利尊氏と対戦して敗れたが、このとき、宗良親王が月明かりの中で笛を吹いたとされている峠である。
現在の街道は決して広い道では無いので、歩行にはクルマへの注意が必要です。
笛吹峠で特筆したいのは駐車場の脇に塚が2つあることです。これが何なのか関係者に聞いてみるが、 何の塚なのかは現在は不明である。
鎌倉街道上道
鎌倉街道上道

その先しばらく峠を下っていくと、左側の山林の中(携帯電話の中継塔の少し先)に掘割状の街道遺構を見ることが出来る。 この部分もまだ詳細な調査は行われていないようです。
峠を下りきったところの橋のすぐ手前で左の草道に入ります。これが旧道であり、小さな橋と山道を行って車道に合流します。
鎌倉街道上道鎌倉街道上道

その先は将軍沢集落です。寺は天台宗明光寺、集落の出口には日吉神社があり、年に2回の祭典が行われます。
道端を注意しながら行くと、庚申塔や板碑が立っているのをところどころに見ることが出来ます。
鎌倉街道上道鎌倉街道上道

日吉神社を過ぎると下り坂になり、これは不動坂と呼ばれています。かっては坂の左側に不動尊がありましたが、今はありません。
下ったところには「縁切り橋」があります。道路が改修されてからは橋は暗渠に変わり、小さな手すりと説明板だけで昔を偲んでいます。 この地に征夷大将軍の坂上田村麻呂氏が上の命令により軍を引き連れて悪龍退治に来ていたが、 心配になった妻女が京都から訪ねて来た。その時、田村麻呂は「大命を受けて出陣しているのに追い来るとは何事だ!今より縁を切る!」と宣言したと言われている。
大蔵集落はかっての宿場であり、今は大蔵館跡や源義賢の墓などもあり、かっての繁栄が偲ばれます。 大蔵館は木曽義仲の父である源義賢の居館と伝えられており、土塁や空堀が残されている。その敷地には大蔵神社が祭られている。
鎌倉街道上道鎌倉街道上道

大蔵宿より安養寺と向徳寺の2つの寺を左に見てその先、学校橋で都幾川を渡るが、 これから先の小川町までは道筋がはっきりと確定されないようです。橋の先は蛇坂と呼ばれる坂道、坂の途中には板碑が立っている。
国道254号脇には菅谷館跡が整備保存され、敷地内には歴史資料館が建てられている。
尚、菅谷館跡の西方に「鎌倉街道の碑」が立てられている。以前にその場所の掘割状遺構が鎌倉街道であるとされていたが、その後、調査の結果「この付近は街道の特定は出来ない」と訂正されている。
鎌倉街道上道鎌倉街道上道

<平成17年5月>



Copyright (C) 2005 JA1KLB
inserted by FC2 system