三国街道・金毘羅峠

塚原宿
旧三国街道の月夜野町の塚原宿付近は一般的にもあまり知られていない。町の西側をかすめるようにして通っている街道のためか、行政もあまり観光的にも力を入れていないし、整備もされていないようです。 そのため、今回は月夜野町の教育委員会を訪ね、その概要を知る事ができたので2回に分けて歩いてみました。
塚原宿の位置は地図でわかりやすいので、ここにクルマを置かせてもらいます。 かっては道路の中央を用水路が流れていたということだが、今は舗装道路に埋まってしまっているのが残念。でも宿場の面影としては碑も建っているし、少しの雰囲気は残されている。
ここから県道を横切り赤谷川側へ向かって旧街道の坂道を下ってみると、川沿いには向こう岸(新治村)への川越えがあったはずなのであるが、3〜4軒の民家があるだけで跡形は何も無い。少し上流側(発電所がある)へ行くと草むらの中に古そうな「溺霊供養塔」が建っていたので、そこらあたりが川越えだったのであろう。 今その場所には、発電所用の水路と堰があるのみである。
渡しの付近に残る溺霊供養塔塚原宿
塚原古墳 尚、塚原集落には数多くの古墳があるとのことだが、これも観光パンフレットには紹介されていない。塚の口が開いているのは盗掘によるものだそうである。


塚原宿〜金毘羅峠中

旧三国街道は塚原から先江戸方面は、金毘羅峠を目指すのだが、塚原宿を出たところが耕地整理が行われており、旧道は少々消滅している。しかしすぐその先から、旧街道は荒れてはいるがはっきりと残っていた。とっつきの数十mは胸まではある雑草に覆われており、入るのをためらってしまう程だ。勇気を出して藪の街道に突入すると、先の山の中はまさしく旧街道の雰囲気であった。只、人が歩いている気配が無いので、クモの巣を払いながら足元にも注意して進みます。 塚原より金毘羅峠を望む

※この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。
(承認番号 平16総複、第410号)

金毘羅峠への入口は草に覆われている旧三国街道

10分ほど歩くと右側に椎茸栽培の小屋があり、さらに砂利道の林道に出て少し行くと小さなダム湖に突き当たってしまった。戻ってシイタケ栽培の作業をしていた年配の人に旧街道のことを訪ねると、旧街道を良くわかっており詳しく教えてくれた。 このあたりの街道は作業道のためにバイパスのような道も出来てしまっていたのだ。 たしかに椎茸小屋の手前に分岐する草道があり、その道をたどって緩い坂道の街道を上って行く。
大きな石垣が残る一里塚とも思える塚?

この先の街道はちょっとぬかるんだり、雑草に覆われている部分もあるが、石垣も残っている良い雰囲気がある。また何箇所か倒木もそのままになっていたりして歩きにくいところもある。 どうも日が射す場所が雑草の伸びが盛んなようだが、杉林の中を行くところは草も無く落ち葉を踏みながらの歩きやすい歩行となる。
腰まで埋まる草道の部分途中にある上津方面との分岐の道標

舗装路に出たところは前山林道だった。少し手前には古いコンクリートの道標もあり、月夜野町上津方面への分岐道があった。ここからは一部この林道に吸収されているみたいだし、今回の歩行は暑いこともあり、ここまでとする。 どうもクルマで来るとまた戻らなければならないので、歩行の距離が制限されてしまいます。

前山林道への合流点

<探査日:平成16年7月>
金毘羅峠
2ヶ月前に塚原宿から金毘羅峠の途中まで歩いたが、今回は残り部分の峠越えだ。 今回は中山宿側から歩くことにして、JR沼田駅からバスで高山村中山本宿に入ります。
高山村側の旧街道は大部分が2車線のりっぱな県道に変身しており、クルマではトンネル越えでらくらくと走れるようになっている。
写真左の中山新田の本陣のところから峠越えの道が始まる。しばらく行くと「街道一の清水」が湧いて、小さな池が出来ている。 この清水は病に伏した長岡藩士がもう一度飲みたいと言っていた湧水とのこと。しかし今は、「飲料には適しません」との表示がされている。
ここから始まる峠越え左に「街道一の清水」がある

中山宿を出て40分ほどで新しい赤根トンネルの入口に到着。ここにはトイレと駐車場があるので利用するといいでしょう。旧道はここを左に入ってゆく。さらに少し行くと赤根峠への車道を右に分けて直進する。道標があるが距離表示が間違っており(左右が逆になっている)消されている。このあたりからは道が細くなり旧街道の雰囲気が出てくる。
赤根トンネル赤根峠は右へ分岐する

まもなく、あずま屋のある「塩原太助馬つなぎの松」に到着。駐車スペースもある。1761年、新治村で厳しい環境に育った太助少年(18歳)が江戸に奉公に出るとき、愛馬「あお」をこの松につないで別れた。太助は後に江戸で財を成したという。しかし、それほど大きくは無い松の木だ。高山村の文化財指定になっている。また福守石(摩羅石)というのも祭られており、どこにもあるようないわれが書いてある。
馬つなぎの松から100m先が金毘羅峠で、現在の高山村と月夜野町の境だ。標高の表示は無いが850mくらいと思われる。峠から右に分かれる道があり、道標には「金毘羅宮」の方向が示してある。旧三国街道の表示は無いが、ここを入っていくのが旧街道である。舗装された前山林道は左に迂回して下って行く。駐車場みたいな空き地があるので、クルマの場合はここにも駐車できるでしょう。
馬つなぎの松金毘羅峠

尾根状の平坦ではあるがクルマの轍が深い道を500mくらい行くと塚の上に小さな石製の祠が建っている。「金刀毘羅宮」と表示説明されている。これも長岡藩士が見晴らしの良いここに旅人の道中安全を守るために建てたとある。今は、周囲の樹木が茂って見晴らしは良くないが、雑草の刈り込みはされている。またここは不動峠という名前が付いているようだ。
ここは以前に1回、ここまで入ったことがあったのだが、道標も無く、ここで行き止まりだと思ってしまったところだ。 今回は役場の人に聞いていたので、祠に向かって左側の崖のようなところを見おろすと、曲がりながら下ってゆく旧街道を見つけました。
金刀毘羅宮ここから下る旧街道

下る道は日が当たらないためか、雑草は無く、落ち葉を踏みながら歩きやすい。途中には小さな石仏も建っている。
下りの旧街道旧街道

10分ほどで道標が立っているところに出る。ちょうど峠から下ってくる舗装の林道と横に入る林道が分岐するところに出たのだ。旧街道もここまでは環境庁の「中部北陸自然歩道」に指定されているようだ。 あたりを見回したが、この先に続く旧街道らしき道筋は見えないので舗装の林道を下ります。するとカーブを1回曲がった先辺りで、右側の雑木林の中を良く見ると、掘割状の道跡みたいのが見えたのだ。ここから再度旧道に入ります。
林道に合流旧街道

ここからの旧街道も林の中で周囲は暗いが、落ち葉を踏みしめる掘割状のなかなかの雰囲気もあるが、旧道というよりは旧街道跡と言った方が正解かも知れません。
ここを10分ほど歩くとまた林道に出て、写真ではわかりにくいが、ここを直角に横切ってさらに旧街道跡は先に続いているのだ。普通の人では絶対に旧街道があるとはわからないでしょう。
再度旧道旧街道

ここからはちょっと道が荒れてきます。倒木が道をふさいでいたり、雑草がひどくなるのである。ちょっと歩くのをためらってしまいそうだが、掘割状になっているので、道筋は大変にはっきりしているのでがんばって歩き続けます。
再度旧道旧街道

旧街道 歩きにくい道だったが、この間も10分足らずの歩行で再度林道に出る。写真がその出口だが、ここに道があるとは思えない状態だ。
この先は林道のカーブをひとつ下れば、前項でレポートの月夜野街道との分岐点に到達する。
林道をクルマで走れば見晴らしの良い「あずま屋」があるが、ここよりも少し上の地点のようだ。
旧街道は高山村側では前山林道と重なっているが、月夜野町側では大部分が別ルートになっており、旧街道探検家には興味のあるところだ。また途中から分岐している旧月夜野街道も森の中に埋もれて、さらに荒れているようだ。また機会を見つけて重装備で探検してみようか。
この後は車道を月夜野宿まで歩き、バスでJR後閑駅に着いたのである。

・・・・・協力:月夜野町教育委員会

<探査日:平成16年9月>


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